芦屋松浜テニスクラブ沿革

ホームページを作るにあたって、兼松OBの全日会員、萩原真一様に、兼松㈱のテニスコートが芦屋の現在地に移転した時点から、クラブ創成期までの貴重なお話を頂戴しました。以下、原文のまま掲載させていただきます。

なお、萩原真一様は2018年9月20日ご逝去されました。謹んで哀悼の意を表しご冥福をお祈り申し上げます。ご逝去されたとはいえ、生前にご寄稿いただきました今となっては誰も知らない当クラブの沿革ですので従来通り掲載させていただきたいと思います。

芦屋松浜テニスクラブの沿革

 

1985年、西宮にあった兼松㈱の福利厚生施設の一つであったテニスコートがバブルのきっかけとなったプラダ合意の年に、マンション建設用地となり芦屋に移転することになった。芦屋のコートは、岡山土地倉庫という中国銀行グループの会社から建設費を含めての5年リース契約で始まった。当時はバブル期の始まりでもあり、会社も好景気であった為に、年間のリース料は恐ろしいほどの金額であったことを覚えている。

 最初のサーフェスは、ドイツから導入した「タイヤの廃材を利用したゴム」を全面に敷きその下には、長さ30cmぐらいのパイプを配水管として無数にコンクリートに立てたものであった。打球の速度、バウンドも良く、水はけ抜群、人体への負担はない素晴らしいものであった。しかしながら欠点があった。使っていくと塗料が段々と剥げてタイヤの黒い色がボールに移り、何度と塗料を塗りなおす必要があり継続はできなくなった。

 その次に、神宮球場にも使われた「人工芝」を、基礎部分はそのままでタイヤのゴム部分を剥がして、その上に設置した。この2つのサーフェスは、兼松の商材開発の為の試作品としての位置づけであった。

 

1995年の阪神大震災では、近隣のテニスコートは多大な被害にあった。松浜コートも例外ではなく、南西から北東に向って、20cmの山脈が1本出来てしまい、全く使える状態ではなかった。その後、岡山土地と協議し修復をするものの、現在の「イレギュラーバウンド」として震災の記憶を永遠に残している。

 

 そして1997年、兼松も遂に構造改革を迫られる不況期になり、大阪支社の人員大幅減や、テニス活動実人員の減少から自社コートの保有を断念することとなり、岡山土地へ契約解消を通告した。

そこで困ったのが、兼松社員やグループ会社のテニス愛好家、いや実際にはそのお友達達やOBの方々。何とかプライベートなクラブを運営できないかと茂松氏(故人)を中心に話し合い、賃貸料を岡山土地と掛け合い契約に結びつけた。但し、先方からは、何処の馬の骨か判らない個人との契約は拒絶され、信用力のある茂松氏の友人の会社との法人契約を3年契約で結ぶこととなった。そして、有志7名が3年間の連帯保証人として押印しこのクラブの歴史が始まった。

 

 初代の理事長には、嫌がる茂松さんに当然就任して頂き、何もないところから会員を集めることになった。それでも、兼松時代から、知人、友人が多くプレイを楽しんでいたこともあり、土日の会員の多くは顔見知りメンバーから始まった。平日会員は、以前から、竹田コーチにスクールを開催していただいた経緯もあり、そのスクール生が中心となってメンバーを構成していくことになった。

 2代目理事長には、茂松さんの強い意向もあり、兼松色のない木山氏にお願いし、本当の意味でのオープンな松浜クラブがスタートしたと思う。